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2011年 04月 24日
僕は、震災があってから、何か時間があれば手を合わせて、
祈りを捧げようと思って、それをしてきました。 決して、偉そうなことではなく、お金もいらない、偽善なんかじゃない。 ただ、右手と左手を合わせるだけ。 そんなことして、何になるの?って思う人もいるでしょう。 でも、手を合わせたときの温かさって、いったいなんでしょう? 簡単には証明できない強い力があると思うんです。 通勤途中の電車の中。太陽の温かさに手をかざしてそのまま合わせる。 寝る前、起きた時。咲いている花に、気持ちの良い風に、道を這うアリに、 カラスに、猫に、笑っている赤ちゃんに、僕の家族に。 そして、震災や原発で被災された方々に、今必死で現場で尽力されている方々へ。 みんなに見られるところでは、ひっそりと手を合わせ、 誰もいないところでは、しっかりと手を合わせていました。 すごくきもち良い行動です。 何にもならないにしても、誰にも迷惑はかけませんよね。 だったら、ほんの一瞬でもいいから、祈りませんか? 日本人は、戦後アイデンティティーを奪われ、大きなものを失いつつあると 思うのだけれど、神社や寺で手を合わせる行動は、 無意識に日本人の中に秘められている、大事なものがまだ失われていない証拠だと感じます。 4月24日(日)正午に皆で祈りを捧げよう~哲学者・内山節さんからの呼び掛け 東日本大震災で亡くなった人々を、みんなで供養しよう ―亡くなられた方々の冥福を祈る日をみんなでつくりだすことを呼びかけますー 最初の呼びかけ人・内山 節 日時 2011年(平成23年)4月24日日曜日 この日にそれぞれの場所、それぞれの方法で亡くなられた方々への冥福を祈りまし ょう。また12時正午にはみんなで祈りを捧げたいと思います。 方法 ご自身の信仰をおもちの方はその方法で、また他の方々はそれぞれが思い ついた方法で。被災地の方角を向いて手を合わせる、仏壇などをおもちの 方はお線香を上げる、近くのお寺、神社、教会などに集まり祈りを捧げる、 ご自宅に思い思いのデザインの半旗を掲げる、追悼の集まり、コンサート などを開く、・・・・方法は自分がよいと思う方法で、自分のできる方法で。 国葬のような儀式にするのではなく、全国津々浦々でみんなが送る日にし たいと思います 東日本大震災は私たちのなかに驚き、恐怖、悲しみとともに、自分自身もまた「支え合う社会の一員でいたい」という強い意志をも生みだしました。皆様もそれぞれの場所、それぞれの方法で、直接、間接的な被災者への支援の活動をおこなわれていることと思います。私たちの役割はこれからも持続的な支援活動を続けながら、被災地の復旧、復興に協力していくともに、この直接、間接的な活動をとおして社会とは何か、社会はどうあるべきか、暮らしや労働をどう変えていったらよいのかなどを捉え直し、日本の社会を再生させていくことだろうと思います。 その意志を示し、未来への歩みをすすめるために、みんなで東日本大震災で亡くなった方々を供養する日を設定することを呼びかけます。 古来から日本の社会には、災害や「戦」などの後に亡くなられたすべての方々の冥福を祈り、死者供養をする伝統がありました。「戦」の後には敵味方を区別せず供養しました。またそのときには人間だけではなく、巻き込まれて命を落としたすべての生き物たちの冥福を祈りました。さらに災害の後には、大地が鎮まることをもみんなで祈りました。そうすることによって、悲劇に巻き込まれていった生命への思いを共有し、ひとつの区切りをつけ、次の歩みに向かう入り口をつくりだしてきました。 この度の大災害で亡くなられた方々に対してはすでにご遺族の方々などの手によって、精一杯の供養がおこなわれたことだろうと思います。しかしその一方でご家族が全員亡くなられるなどして、誰にも送ってもらうことができないでいる人たちもおられると思います。そのような方々に対してはもちろんのこと、すでにご遺族の方々なとによって供養された人たちに対しても、みんなで追悼、供養してあげようではありませんか。そうすることによって、これからの私たちの決意をも示したいと思います。 この案内を受けられた方は、ご友人、お知り合いなどに転送し、この呼びかけを伝えてはいただけないでしょうか。またホームページ、さまざまなSNSなどでも呼びかけ合うとともに、供養の方法を提案していただければ幸いです。お寺、神社、教会などにも呼びかけ、私たちはこの災害とともにこれから生きていくことを確認したいと思っています。 亡くなられた方々を十分に追悼することなく、未来を語ることに私はためらいを感じます。ここからはじめませんか。
by milele-zakka
| 2011-04-24 01:35
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